ゲアリー・マーカス『脳はあり合わせの材料から生まれた』

脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ

脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ

素晴しいです。原題は『Kluge』で、この言葉そのものについても本の中で解説しているのだが、この日記を読むような人たちにはCLtL2こと『Common Lisp: the language』の索引のとある記述などでおなじみかも知れない。この記述についてはだいぶ前のShiroさんの日記で知った。こんなの:

(2004/07/19 03:44:41 PDT) CLtL2の謎
ふたつに割けたCLtL2を今日もひっくりかえして調べ物をしていると、 INDEXに次のようなエントリがあった。
kludges, 1-971
1-971は本文全てってことである。これは、 「Common Lisp全てがkludgeの固まりである」というSteeleの隠されたメッセージ、 なのか?!

スペルは違うけどまあ同じようなもんである。この時点では私のvocabularyにない単語だったから、逆にここからkludgeという言葉をこのようなものと理解していたような気がする。本書によれば、

クルージとは技術用語であり、「エレガントにはほど遠く無様であるにもかかわらず、驚くほと効果的な問題解決法」というような意味

だそうである。この引用からもわかる通りエンジニアリング的なバックグラウンドを持つ人にはとてもわかりやすい文章で、本書全体もエンジニアがきちんと設計していたとしたらこういうふうにはしなかったであろう、という観点で脳の性質を説明するというスタイルになっている。
脳にははじめにしっかりとしたデザインがあったわけではなく、進化のそのときどきにおいてなんとかその場を切り抜けようといろいろと苦労した結果が詰まっていて、それが時には不合理に見えることがあるという。一例を挙げると、人間の記憶メカニズムは不完全で忘れっぽすぎる。コンピュータのように決して忘れない機械も作れるのに人間の脳はそうなっていない。また、禁煙やダイエットが続かないのはそもそも長期的な利益よりも短期的な快楽をついつい選んでしまう人間の性向にあるがそれは脳がそのように働くからである、などなど。
こういったことを様々な実験結果や事例をもとに解説してそれ自体がとても興味深い。しかも本書の最後で著者はそのような脳の不完全さを認識しつつ、その罠に陥らないようにするためにアドバイスをしているのだがこれがすごい。例えば「疲れてるときには重要な判断をくださない」などと身も蓋もないことが書かれていたりしても、ここまで読んできて人間の脳の不完全さについて認識した人間にとってはすごく説得力がある。
あり合わせの材料から生まれてそこにある脳というものをきちんと運用することこそが人類の叡智なのである。そしてそれこそが優れた教育が必要な理由なのだとも言っている。特別に訓練しない限り、人間は努力や忍耐を避けるし、騙されやすい生き物である。適切なガイドなしにGoogleWikipediaを使うだけではバイアスから逃れることは出来ない。それは脳がそういう構造をしているからだ。その欠陥を認識することはとても重要なことなのである。
と、このように非常に深い内容を持った面白い本なのだが、ありがたいことに全体的にコンピュータ用語や技術用語がちりばめられており、これがまた効果的に使われるためプログラマの人やこの日記を読みにくるような人にはとても読みやすくなっている。文句なしにオススメする。

参考

Common LISP, Second Edition: The Language (HP Technologies)

Common LISP, Second Edition: The Language (HP Technologies)